前代未聞のプロジェクトとして立ち上がった瀬戸大橋建設。前編記事『「瀬戸大橋」架橋にいたるまでの「知られざるドラマ」』では、建設開始にいたるまでの政治的な駆け引きなどを紹介した。
ついに始まる工事、どんな苦難が待ち受けていたのか。生き証人が語った。
'78年10月10日、瀬戸大橋はついに起工式にこぎつけた。
翌'79(昭和54)年2月7日、水中発破が行われ、大音響とともに、海上50~60メートルの水しぶきが上がった。これによって、海底の堆積層と風化花崗岩層を、水深50メートルまで一気に砕いた。
最大の難所は、「海の霞が関ビル」と呼ばれた「7Aケーソン」を設置する工事だった。
ケーブルを固定する世界最大の高さ131メートル、42万平方メートルに及ぶコンクリート塊の海中部の型枠になるもので、32回も水中発破を繰り返して掘った後、岡山県側から12隻の船で8時間かけて運び込んだ。
だがあろうことか、岩盤に砂が積もり、設置したケーソンが南北で1メートル傾いてしまった。急遽全国からダイバーを集めて、必死に砂を吸い出し、1ヵ月後にようやく水平に戻した。
こうして海上部分約9・4キロメートル、6つの橋と4つの島を高架橋で結ぶ総工費1兆1300億円の世紀のプロジェクトが進んでいった。
「私が公団(現・本四高速)に入社したのは、着工して2年後の'80(昭和55)年で、すぐ瀬戸大橋の担当になりました。本当に気が遠くなる巨大プロジェクトでした」
こう振り返るのは、瀬戸大橋建設の「生き証人」大江慎一本四高速常務だ。
「大水深、急潮流下に、日本で前例のない規模の基礎を瀬戸内海に構築し、鉛直架設誤差5000分の1(継手のすき間0・04ミリメートル以内)の垂直の主塔を建てる。
そこに、150年に一度の台風や地震に耐えられる橋を架けていく。最長1000メートルを超す距離にケーブルを張り渡す吊橋3橋に加え、斜張橋2橋にトラス(三角)橋という長大橋を同時並行して製作、架設していくわけです。
しかも自動車道路の下部に、世界で初めて時速100キロメートルの高速列車が走れる鉄路を通します。
これらすべてが、'88(昭和63)年春の開通を厳命されていました。ところが工事担当課からこっそり工程表を見せてもらうと、工期が1年ほどはみ出ていた(笑)。
あらゆる工程で工夫を重ね工期を短縮していきました」
大江常務も、伝説の杉田所長の薫陶を受けている。
「杉田所長は四国出身だけに、何としても自分の手で橋を架けたいという情熱にあふれた技術者で、自ら300回も潜水しました。
身体を鍛えるため、自宅から11キロメートルの道のりを自転車で通っていたほどです」
こうして艱難辛苦の末、瀬戸大橋は'88(昭和63)年4月10日に開通。その1週間前に記念行事として10万人が大橋を行進した。
「私は瀬戸大橋建設に青春を捧げ、いつのまにか30歳になっていました。あの日はとてもよい天気で、爽快に2時間以上歩きました。
その時、古代ローマの水道橋のように何百年も後世に残ってほしいと思ったものです。実際、台風や地震にも幾度か襲われましたが、瀬戸大橋はびくともしませんでした」
最後に、杉田秀夫・瀬戸大橋建設プロジェクトリーダーの言葉を紹介したい。
〈装備が万全でなければならない。恐るべき海を相手にする時、装備の不備を人間の器用さとか、精神力で補うなどという大それたことは夢考えてはならない。〉